妄想と現実世界は剥離できない

 ネットは思い通りになる世界だから、現実逃避にもってこいと会社の上司に言われたことがある。

 私はそんなことはない、ネット世界でも礼儀とかはある。思い通りにはならない、と反論できませんでした。情けないネ。

 だが上司の言いたいことはそうではなかった。上司が言いたかったことは、ネット世界では思い通りになると思い込んでいる人間がいることを示していたのである。

 現実では学校や職場の人間関係がある。人間が嫌われる理由は暴力をふるうとかではない。気が利かない、空気が読めない人間も嫌われるのだ。気が利くということは媚を売るのではない。社会人になるものにとって大事なことである。気が利く人間ならいじめられても助けてくれる人は出てくる。
 無視されるのはそいつを助けても見返りがないからだ。見返りは言い過ぎだが、いいことをすればそれが返ってくる。それと同じだ。いじめ問題で周りが助けてくれないのはその人が気の利かない、自己中心的な人間ではないかとにらんでいる。事実私もそうだった。

 話がそれたがネット世界での人間関係は軽い。私は北海道に住んでいるが、知人ははるか遠い地に住んでいる。掲示板で書き込みすればコメが返ってくることもある。もちろん必ず帰ってくるわけではないが、誠意を示せば大抵はコメはくる。
 生身の人間と接しているわけではないから、気に喰わない相手に対し辛辣な態度を取る人もいる。近くに住んでいないから荒らしを楽しむ人もいる。もっともIPアドレスでばれることがある。犯罪が絡めば警察は動く。携帯電話で犯罪予告を書いて逮捕された人は多い。

 現実では無口か、声が小さい人でも書きたいことを書けるのがネットだが、やはり誠意のある態度を取らねばならない。それは相手に媚を売るのではなく、社会人として当たり前の行為である。お前馬鹿だなとか、あんたのサイトはアクセス数少なくてご苦労様とか馬鹿にする人のサイトを通いたいと思う人間はいない。
 
 昔は議論と言えば雑誌の読者コーナーだった。もっとも月刊誌だと二か月間の期間がないと無理だった。掲示板の時間差はなく、すぐ生の声が返ってくる。だがその分歯に衣を着せないカキコも目立つ。雑誌は時間がかかるが担当編集が載せるお便りを厳選していた。誹謗中傷など載せるわけがない。掲示板はそれが載ってしまうのだ。便利なツールが出るとそれを悪用する人間は必ず出る。ネットに関わらず、それは起きる。

 自分の書きたいことを書いてもそれが他人にとって同意されるかは不明だ。さらに言えば人の好みは千差万別だ。戦争物でも三国志が好きな人がいれば、戦国時代や、ローマのポエニ戦役が好きな人がいる。私は今塩野七生女史のハンニバル戦記を読んでます。
 たとえ三国志が好きでも、人によって何が好きかはまるっきり変わるのである。好みのジャンルが一致しても、その人の見方が一致するとは限らない。むしろ反発するかもしれないのだ。

 前にも書いたが今私が書いているブログは文字だけだ。しかしその後ろには江保場狂壱という生身の人間がいる。他のサイトも同じだ。ロボットが自動的にサイトを更新しているわけではない。人間が自分の頭で考えたことをブログに書き綴っているのだ。

 現実もネット世界も人間の繋がりがある。思い通りになる世界などない。そんな世界は存在しない。そんな世界があるとすればそれはその人の妄想である。人は一人では生きていけないのである。仏教でもお蔭という言葉がある。私が生まれたのは両親のおかげでもあり、私がブログができるのはプロバイダのおかげであり、パソコンを作ってくれた人のおかげでもある。すべてのものは誰かにつながるのである。自分が生きていられるのは、他の誰かのおかげであることを忘れてはならない。